境内ガイド
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安仁神社入り口の標柱

 昭和20年以前の社格(その神社の格式)を示しています。
この標柱の題字は宮内属(くないのさかん)粟屋 謙氏によって揮毫され、大正6(1917)年作成されたものです。
元標(岡山県庁)まで5里(およそ20㎞)と記されています。
邑久郡大宮村大字藤井は旧村の字(あざ)で、昭和30~40年代の大合併による旧 西大寺市を経て、岡山市西大寺一宮になる。

備前焼作家の作陶による狛犬

 明治末期から大正初期に奉納されたもので、当代備前焼の名細工師 木村宗太郎氏による奉納物。
県内では比較的備前焼による狛犬奉納が盛んであった(近年、岡山県教育委員会による備前焼の狛犬集成がなされている)。
木村宗太郎氏の子息に故 16代木村宗得氏と木村陶雲氏がおられ、陶雲氏と16代宗得氏の子息 玉舟氏が現在も備前市において作陶活動を続けておられます。

二の鳥居(2番目の鳥居)の位置

標柱右奥にある一の鳥居をくぐって緩やかな坂道を登ると、やや広くなった参道のやや向かって左にあります。江戸時代の初期、四代岡山藩主 池田綱政公によって奉献・建立されました。古老の話によると、かつて鳥居の右側には大きな松が立っていて、後年枯れてしまったために大きく右側が開いているとのことです。

手水舎が石段をはさんで手前と奥に2ヶ所

通常、手水舎は参道を進んでくる参拝者にとって一ヶ所あればよいもの。後述の「急な石段」とも関連がありますが、かつては手前側(参集殿前)は一般参拝者用、奥側(拝殿前)のものは勅使様(天皇陛下に代わって奉幣・代拝申し上げるお使い)や招待された方など特別参拝者用に使用されたそうです。

随神門の向き

手前側の手水舎を過ぎると、随神門にでます。やや参道に対して左へ30度ほど主軸が振れています。多くの神社建築がそうであるように、本殿に対してその他の建物は正中(せいちゅう、神様に対して真正面、もしくは同一方向であること)を同じくしない決まりごとがあるからです。本殿の神様に付き従う神が祭られた神門であるために正中が異なります。

参集殿の改修事業

現在、参集殿として使用している建物は、かつての社務所でした。総7部屋に襖で区切られていて、上位(向かって右)に神殿がある上座、下位(向かって左)に土間の台所、今はありませんが潔斎所(風呂場)が建物裏手にありました。旧来から建物の傷みがひどい状態でしたが、平成15年に氏子・崇敬会や篤志家の皆さんの浄財により改修事業を終えました。 今日では結婚式の披露宴会場として、また正月やお祭りなどには氏子さんらによる各種芸能披露の場として地域に密着した利用が図られています。

急な石段について

山上にある神社に石段は付き物ですが、あまりにも急で上がりきらないと拝殿(社殿)の全容を拝することはできません。
かつてはこの石段の下に賽銭箱が設置されており、一般の参拝者は石段を上がることができませんでした。石段を上がれるのは勅使様や祭典参列者など、ごく限られた人々だけだったようです。現在では石段に手すりを設置し、どなたでも登段できます。
近年では正月三賀日などに駐車場から拝殿前まで氏子有志による駕籠参拝が行われたりしています。

裏山出土の銅鐸について

 明治36(1903)年、(社伝では明治34(1901)年)大雨によって本殿裏手の斜面が崩落し、土砂の除去中に発見された。全高31.2cm、鐸身24.5cmと小振りで、鋳上がりも悪くA面・B面(前面・後面)とも鋳損じが多く見られる。考古学の形式分類から弥生時代初頭(およそ2,000年前)のものと考えられている。当時の京都帝国大学の小林行雄博士の研究によって紹介されて広く世に知られることとなり、長く神武天皇御東進の神宝として保管してきたが、近年は岡山県立博物館に寄託保管を依頼し、今日に至っている。10年ほど前、神社に一時里帰りして参集殿で一般公開された。銅鐸は現在、岡山県指定重要文化財となっている。

用語解説

社 格

 全国の神社はすべて(伊勢)神宮と官幣社・国幣社、府社・県社、村社、郷社、無格社に分類され、終戦まで政府によって管理・運営がなされていた。
 さらに官・国幣社はそれぞれ大社、中社、小社に細分され、官幣社には別格官幣社(待遇は小社と同じ)も見られる。
 安仁神社は国幣中社として、年中の重要祭典には政府から幣帛料(お供え)がなされて県知事(代拝を含む)などの参拝を仰いだ。

宮内属(くないのさかん)

 現在の宮内庁の前身、旧 宮内省の職階。宮内省官制(明治40年皇室令第3号)のよって宮内大臣以下、次官・秘書官・書記官・翻訳官・属の職員が配置されていた。
 属は総勢270名の一般職員にあたり、同官制に「大臣官房各職及各寮ニ分属シテ庶務ニ従事ス」と規定されている。

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